あなたの意見、否定されたら怒りますか?

エゴについては、もう研究の余地も少なくなってきた今日この頃。
それでも日々、人の心に巣食うエゴを垣間見ては、エゴに呑まれる怖さを痛感しています。

最近だと、よくあるパターンが“否定”されることに対する怒り。
例えば話の流れで、相手の意見を否定したとします。
そうすると、だいたいエゴちゃんの登場。
機嫌を悪くするだけなら良いのですが、敵対視してくることもしばしば。

自分が常に正しいとでも思っているのでしょうか。
正しくないと大人じゃないとでも信じているのでしょうか。
自分が1番物知りじゃないと気が済まないのでしょうか。

傲慢やプライド、優越感といったエゴのサインがチラチラ見えるわけですね。
でも肝心な部分は、その奥っ側にあります。

“自分の価値と自分の意見の混同”

これです。
ここをしっかりと理解していないといけません。
知識や考え方、意見は自分のものです。
今までの経験の賜物です。
ただし。
どれだけ頑張って蓄えた知識も、苦労して導き出したポリシーも、常に正しい訳ではありません。
科学は進歩し、世界は変化し続けています。
もちろん人間は死ぬまで未熟なので間違えることもあります。
もちろん、相手の意見と食い違うことも。
当たり前のことです。
日常茶飯事。

でも、間違いを指摘されると、あたかも自分が否定されたように感じてしまいます。
否定されているのは知識や記憶なのに。

考えを受け入れられない時、あたかも自分が受け入れれなかったと錯覚します。
受け入れなかったのは考えやポリシーなのに。

知識や考えが正しくなかったとしても、ダメな人間ではありません。
ただ、自分の正しさが、相手や世間の正しさと違っただけです。
もし、その時に自分が正しくないと思ったら、自分の正しさを変えれば良いだけです。

「その考え間違ってるよ」
「は?何を偉そうに!お前の存在自体が間違いや!」

なんてことを言いそうな友達がいましたね。
過去形ですが。
別に嫌いになったわけではなく、人として否定するつもりもない一言。

「その考え間違ってるよ」

単なる指摘が、エゴちゃんを刺激してしまいます。
もしエゴの影響を受けない人なら、

「その考え間違ってるよ」
「どこが?」
「そこが」
「そうか」

以上。
もし間違っていなかったら逆に指摘すれば良く、正誤の問題でなければお互いの考えを認めれば良いだけです。
何も唾を飛ばして言い返す話ではありません。

さてさて。
多くの人は、どうしてもエゴちゃんが反応してしまうでしょうね。

「気分悪いわ!」

って。
となると。
意見の否定や間違いの指摘を自分自身の否定と捉えない工夫が必要そうです。
では。
自分の考え、自分の知識。
これらを自分の手に持つ本のような感覚にしてみたらどうでしょう?

自分の手に持つ一つの考え。
自分で持っていますが、自分の一部ではありません。

「その本に書いてあること間違ってるよ」

先ほどの言葉の対象は思考でした。
思考するのは頭。
頭=自分という結び付けるのが普通の感覚です。
でも、手に持っていると思うと対象は自分から外れます。

執着はエゴちゃんが暴れ出す原因になります。
そして自分に対する執着は、なかなか手放せるものではありません。
自分がバカにされると怒りますし、殺されかけたら抗います。
でも、手に持っている一冊の本の場合はどうでしょう?
執着の度合いが違ってきます。

「その本に書いてあること間違ってるよ」
「そうか。ほな、修正ペンで書き直しとこか」

素直に書き換えることができます。

そして手放すことが上手な人は、手を開くだけ。
手元から離れる古い考え。
そして相手が持っている考え方を空いた手で掴む。
修正の面倒臭さもありません。
素直に意見を聞くというのは、こういうことです。

いかがだったでしょうか?
これから知識を正されても大丈夫ですか?
意見を否定されても大丈夫ですか?

否定されたと思ったらイメージして下さい。
否定されたのは自分ではありません。
手に持つ本です。
手書きの本なんで間違いだらけです。
そして、これからも改訂が何回も入ります。
何なら捨ててしまうかもしれません。
それくらいのものなんです。

間違いだらけで、変化し続けて、常に正しいわけではない本。
それはあなたが持っているものですが、あなたの価値を揺るがすものではりません。
そんなものに執着することに価値はありません。

もちろん、より正しいと思うことを取り入れることは大切です。
その努力も報われます。
でも、その積み重ねた正しさに執着するのは正しくない。

「その考え間違ってるよ」

考えを正しましょう。
そして指摘してくれる人に感謝しましょう。

「教えてくれてありがとう」

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