成長なんて必要ない!
アドバイスもいらない!
認め合い褒め合う友達しかいらない!
なんて感じで拗ねてしまった人がいます。
僕はどんな価値観も認めるスタイルなので、このスタンスももちろんOK。
ジャッジも基本的にしないようにしているので、未熟とかバカとかアホとか決めつけないようにしています。
いいんじゃないのかな?
それが人生をかけてまで全うしたいことであれば。
この世は類友の法則があるので、もちろん褒め合う友達も同類項です。
「自分の軸を持ってるから同類にはならないよ!」
なんて主張するかもしれませんが、さすがに思慮が浅いとしか言えません。
その軸が既に影響を受けていることに気付いてないですからね。
どんな崇高な価値観も。
どんな幼稚な価値観も。
人と人の繋がりの中で交換されているんです。
自分の軸を主張するのは構わないですが、その軸は変化に富んでいることは自覚した方が良いでしょう。
「楽しいから一緒にいるだけだよ!」
の裏で影響を受けているナニかが存在することは確かです。
ちなみに。
その影響が自分の魂を侵食していることに気付く切っ掛けは転がっています。
心に湧く違和感の時もあれば、友達からの助言の時もあります。
そこに気付くかどうかは自分次第。
というか、いつ気付かないフリを止めるか。
自分にとって都合の良い環境を捨てて、痛みを伴う成長を選択できるか。
子どもは痛みを怖がります。
自分の弱さを認める心の痛み。
友達から憐れまれる目線の鋭さ。
どうして良いか分からない心の葛藤。
結局、目の前の痛みから逃げて。
閉じこもって。
自分の価値に合わない人間を排除して。
スバラシイ“ありのまま”を体現している主張をして。
それで良い。
それが良い。
それが一番。
楽でいられる今が1番。
今を生きることが1番大切。
と、言いながら今を生きていない事実から目を背ける。
生きているのは空想の中です。
こう在れたら良いな、という夢想です。
夢の中の永遠の今を生きることに喜びはありません。
在りたい自分で在ることは簡単ではないんです。
自分の幼稚さに目を向けて。
他人の目線を気にしない勇気を身に付けて。
掻き毟りたくなる心の葛藤を克服して。
そしてようやく自分らしさを見つけるんです。
そして自分らしさを見つけた後も、自分らしくない方が楽に生きれるという甘い誘惑を乗り越え続けないといけないんです。
諦めそうになる度に自分の心に鞭を打たなくてはいけないんです。
諦めそうになる度に厳しい言葉をかけてくれる仲間に支えられないと挫けてしまうんです。
そんな苦しみを乗り越えている間に気付くんです。
自然と自分らしく在ることに。
ただ、在ることに。
簡単に自分らしさに気付く人もいます。
容易く自分らしく生きる道に辿り着く人もいます。
でも多くの人にとって簡単なことではありません。
多くの苦難を乗り越えることでしかたどり着けない道。
だからこそ価値のある道。
もちろん不都合な仲間を排除し続けることが道を歩める条件にはなりません。
一見、自分の道を歩んではいますが、その道はどこにも辿り着かない我が道。
誰も後を付いていかない我が道。
一緒にいる仲間は手を引いている間は道連れにできますが、何かの切っ掛けで離れると、もう2度と出会うことはありません。
もし。
その道が魅力的で。
個性が滲み出ていて。
苦労の轍も。
喜びの花も。
生まれたての若葉も。
そんな命の輝きに溢れているなら。
きっとどこかで道が1つになります。
直ぐに目的地に辿り着く高速道路を遥か上に見上げて、再会の喜びを分かち合います。
そしてまた別れ。
そしてまた1つになる。
ふと振り返ると。
色々な人の魅力的が詰まった掛け替えのない歩みがそこに在る。
僕たちはそんな世界に住んでいます。
一歩ずつ歩むことで豊かになる大地に住んでいます。
時には1人で歩くこともあります。
時には誰かと湖のほとりに留まることもあります。
ただ、湖は永遠ではありません。
手を取り歩む人にしがみつき続けることもできません。
永遠に続くともしれない辛さとともに歩み続けるしかないんです。
歩み続けていれば心から感動できる経験が待っています。
見たこともない草花を。
食べたこともない果物を。
嗅いだことのない花の薫りを。
触れたことのない風の柔らかさを。
そこに伴うのは茨の痛み。
茨の痛みより突き刺さる心の痛み。
永遠に歩むことを選ぶならば避けられない苦しみ。
ただ、茨の道を選ぶ勇気を持てたら、その瞬間から君だけの魅力溢れる道になる。
誰もが歩きたくなる君だけの道に。
そんな道に俺の道が繋がることを願って。
この想いが届くことを願って。