隣の芝生が青いことに気付いてしまった人へ

@友人のFacebookのコメント欄。
コンプレックスの話で「隣の芝生は青い」という諺が出ていました。

「よっしゃ良いこと書いたろ!」

と思って鼻息が荒くなったのも束の間。
書こうと思ってたことが完全に書かれていました。

「自分がいつも青々しくありたいね〜♡」

という結論でしたね。
えぇ、もう長々と書く必要がありません。
自分が思いついたかの如く、

「自分の芝生を誇れるようになるったい!」

とも書けたんですけど、プライドが許しませんでした。
まぁ同じこと考えてたんで問題ないっちゃないんですけどね。
万が一、コメントした本人にバレた時がアレでしょ?
コメント欄の時刻のスクショ貼られて、

「私の見てパクりませんでしたか?」

なんてやられた日にゃ、今まで積み上げてきた信頼と実績が崩壊してしまいますからね。
一応、石橋を叩いて渡ることにした次第です。

さて。
仕切り直して信頼と実績を積み上げていきたいと思います。
先日アップした嫉妬がテーマの記事にも出てきたんですけど、自分と他人を比べるとおかしなことになるって話です。
隣の芝生が青く見えるのはしょうがないんですね。
青いもんは青いんだもの。
ただ、その情報を受け取って何を思い、どのように動くかがキモとなります。

「青い!うらやましい!家主を屠って我がものとしようぞ!」
「青い!妬ましい!除草剤をまいて台無しにしてやろうぞ!」
「青い!っと思ったけど、それほどでもないんちゃう?な?せやろ?な?な?」

嗚呼…人間はなんと愚かなんでしょうか…。
ほんま滅びた方がえぇんとちゃうやろか?

「青い!うちも青したい!何か工夫でけへんかな?」
「青い!何したらそんな青なるん?教えて!」
「青い!手間暇かけて育てたんやろな。さすがやわ!」

おぉ…人間はなんと素晴らしい…。
あ、愛に溢れている…。

どやろか?
後者の場合はエゴがありませんね。
エゴちゃんは鳴りを潜め、相手を認めています。
本来なら自分を一番価値あるものに仕立て上げるエゴちゃん。
着実に大人になっている人はエゴちゃんをお利口さんに教育できています。
ちなみに自分が一番というのは問題ありませんよ。
一番優先順位は高くて良いと思います。
二番、三番に優先順位を落として自分を苦しめる人がいるのが、むしろオカシイので。
ただ、自分が一番になるためにドウコウしようとするのが良くないんです。
人類の中で一番価値がある命なんてありませんからね。
そこを履き違えるとややこしいことになります。
優先順位は高く、命の価値は平等に。
これ、重要です。

さて。
本題に戻りましょう。
隣の芝生は青い。
これは厳然たる事実。
では、諺の埒外に飛び出して考えてみましょう。
前置きが長くなりましたが、重要なのはここからです。

「隣の芝生がアレやコレやと言う前に自分の庭をどれだけ丹精込めて育てていたの?」

先ずはここ。
これは何にでも当てはめることができます。

自分の体。
自分の意思。
自分の才能。
自分の家族。
自分の魂。

誰にも恥じないくらい大切に扱ってるでしょうか?
もし自信を持って言えないなら、よそ見している場合ではありません。
自分に目を向けて、自分を中心とする世界から愛しむべきです。

体を労り。
意思を貫き。
才能を磨き。
家族を想い。
魂を愛する。

これができていれば隣の青い芝生を見ても感情はゆらぎません。
素直に青さに感動できます。
体も意思も才能も家族も魂も自分だけの大切な大切な宝物。
毎日ピカピカに磨いていたら、たとえどんな形でも掛け替えのない一つだけの宝物になります。
ただ、磨くこともしないで当たり前だと思っていたら埃を被って輝きが失われます。
一番やってはいけない宝の持ち腐れです。

「羨ましい!欲しい!」

そう思ってしまうのは人間の性でしょう。
でも本当に羨ましいのか?本当に欲しいのか?
その問いかけこそ人間の本質に近づく一歩となるのではないでしょうか?
人間は本来、誰にでも感動を与える輝ける存在です。
その人が存在するだけで感動する尊い存在です。
その人が育てた芝生の色は創造性の現れです。
その一端を垣間見た時に心から湧いてくるのは純粋な感動であるべきです。
妬み。嫉み。やっかみ。
これが感動の後の余韻として湧いてくる人は、人としての本質を見失っています。

本質はエゴの介在を許しません。
そして本質を捉えている人のエゴちゃんはポジティブな情報をせっせと集めてきます。

芝生を手入れした手間暇。
芝生にかけてきた愛情。
芝生を青くしようとした想い。

エゴちゃんは悪者ではありません。
道を指し示すことで自分が豊かな気持ちになる切っ掛けを集めてきてくれます。
エゴちゃんに向き合い、話し合い、ともに歩む。
そんな関わりを続けることが本来の自分でいるためには欠かすことができません。
認識できないほどの小さな一歩に目を向ける。
この一歩は誰にも気付かれないと思うでしょう。
自分さえも意識しないと歩んでいるかどうかが疑わしくなります。
ただ、神様は見ています。
魂が輝きを取り戻したことを喜んでいます。
神様や魂という概念を強要するわけではありません。
でも僕は神様が自分にも周りの人にも宿っていると信じています。
神様は少し眩しくなった魂の輝きを見逃しません。
ふとした瞬間。
自分の魂の存在に気付くでしょう。
諦めかけた瞬間。
誰かが魂の輝きに気付くでしょう。

目に見えないからこそ尊いもの。
変化が見えないくらい微妙なこと。
そんなものこそ大切なんです。
神は細部に宿るのです。

さてさて。
思ってもみない方向に行ってしまいましたが、まぁ構わないでしょう。
大切なことは伝えられたので。
当初はここからのテーマを掘り下げようと思っていたんですけどね。
かなり長くなってしまったので簡潔に。
では第二ラウンド。
始めます。

隣の芝生は青い。
これは厳然たる事実。
では、諺の埒外に飛び出して考えてみましょう。

青い芝生に遊びに行け!何ならシートひいてサンドイッチでも食え!
青い芝生だけじゃなくて生け垣の手入れも褒めろ!べた褒めしろ!
自分の芝は青くなくていい!お花畑や!
芝は隣に任せてうちは石庭や!枯山水や!
芝生は目の保養!うちは菜園!目の保養のお返しにお裾分けや!

どやろか?
隣の芝生が青かったからこそ生まれたsomething new。
これが人間だけが賜った創造性です。
遊び心です。
隣の芝生が枯れていたらどうでしょう?
徒然草の「神無月のころ」のような作品を生む切欠になるかもしれませんね。
もののあはれに想いを馳せる創造物。
これもまたsomething new。

こういった創造、自己表現がこれからの時代に一層求められるものです。
誰かの創造物に触れることで湧き出るインスピレーション。
枷になるのは青い芝生への執着です。
誰かと一緒にいる時に生まれる予期もできない思いつき。
過去に生きていたら予期できることしか起こり得ません。
人と人とが関わり、繋がり、紡がれることで生まれる想いの奔流。
この大きなうねりが世界を劇的に創り変えます。

隣の芝生は青い。
この厳然たる事実を目の前にして何を想い、どのように動くか。
想いを巡らすだけで無限の可能性が溢れ出てきます。

隣の芝生は青い。
この言葉をスイッチにしましょう。
比べてしまいそうになった時に芝生スイッチを入れましょう。
その瞬間から嫉妬が跡形もなく消え去るスイッチを。
その瞬間から創造性が溢れ出るスイッチを。

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